つげ義春「紅い花」~旅人の目と無力~
旅人の目と無力
つげ義春の漫画は旅人の視点で描かれたものが多い。
旅ものが多いのはもちろんだが、少女の成長をテーマに描いた名作『紅い花』もまた
旅人の存在が不可欠な作品だ。
旅人の存在が不可欠な作品だ。
話のはじまりは、夏の山中で、小さな商店で店番をする少女が
気だるそうに金勘定をしているところからはじまる。
この人気のない山中にぽつんとある店をみていると、
『北越雪譜』の絵図に似たような場所があったことを思い出す。
気だるそうに金勘定をしているところからはじまる。
この人気のない山中にぽつんとある店をみていると、
『北越雪譜』の絵図に似たような場所があったことを思い出す。
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けだるそうにお金をかぞえている |
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お客によってゆくサヨコ。 店にはアメ、ワラジが並んでいる。 |
こういう店では、街道筋を歩く行商人なんかを相手にしていて、
利用客は替えの草鞋や飴、夏には氷を買って道中しばし休んでいた。
長い道のりを歩き続ける旅人にはありがたい憩いの場だが、
それも自動車用道路の普及で旧道が使われなくなるまでのこと。
つげは去り行く日本の風景を舞台に選んだ。
さてそんな旧道を物好きな釣り客が歩いてくる。
少女はそれきたと意気込んで客に声をかける。その強い意気込みにのけぞるお客。
誘われるまま店に座り、良い釣り場はないかと尋ねると
長い道のりを歩き続ける旅人にはありがたい憩いの場だが、
それも自動車用道路の普及で旧道が使われなくなるまでのこと。
つげは去り行く日本の風景を舞台に選んだ。
さてそんな旧道を物好きな釣り客が歩いてくる。
少女はそれきたと意気込んで客に声をかける。その強い意気込みにのけぞるお客。
誘われるまま店に座り、良い釣り場はないかと尋ねると
「シンデンのマサジ」と呼ばれる少年を紹介される。
少年もまた旅客を釣り場へ案内することでお金を稼いでいた。
(そしてついでに学校へ行っていない少女へ宿題を渡す役もあった)
(そしてついでに学校へ行っていない少女へ宿題を渡す役もあった)
マサジに連れられイワナの穴場へ向かう途中、
釣り客は、やはり気になるのだろう、
しかし気にかけていると気取られるのも決まりがわるいのだろう、
「あの女の子はあの店の経営者かね…」とそらぞらしいたずね方をする。
それで、「親父がヨイヨイだから」と、
「あの女の子はあの店の経営者かね…」とそらぞらしいたずね方をする。
それで、「親父がヨイヨイだから」と、
冷静に考えたら方言を知らない東京の読者にはまったく意味のわからない返事をするのだが、
釣り客は「ああ気の毒な身の上なのだ」と察する。
そして同時にページをめくる東京の読者も、
登場する旅人と同じように少女の身の上を察する。
もう読者はここから漫画の中の「旅人」になる。
釣り客は「ああ気の毒な身の上なのだ」と察する。
そして同時にページをめくる東京の読者も、
登場する旅人と同じように少女の身の上を察する。
もう読者はここから漫画の中の「旅人」になる。
旅人というのは、その土地の不運や不幸を目にしても、
それこそ漫画や物語のなかでもなければ、その境遇から助け出してあげる事はできない。
所詮よそものなのだから。
そんな旅人の目をもった読者は、次の少年と少女のやり取りをみることになる。
この少女は、『もっきり屋の少女』『沼』など
ほかのつげ作品に出てくる少女たちと似ている。
皆共通して、田舎の閉鎖的な空気や縛りのなかで痛みを受けている少女だ。
『紅い花』での少女の痛みは月経痛、成長する痛みである。
この痛みは近代化へと成長しきれない、旧街道筋の「痛み」の象徴とも読み取れる。
少女の姿は、自動車用道路の普及でやせ細った街道と、
人気のない美しい、赤い花咲く山村の可憐さの集約とみれそうだ。
そういえば少女を下山させた少年は、古い軍隊の帽子を被っていた。
少女を山から下山させることは、時代の移り変わりを象徴しているようで、
また少女の悩みが解放されることは、同時にひとつの時代の終わりのようでもあって悲しい。
少女ひとりを救うことも時の流れを止めることもできない旅人の無力さを
私は『紅い花』を読んで味わうのである。
消え去った日本の面影と人間の無力さを描こうとしたからこそ、
つげは背景を細部まで描き込む、リアリズムの絵画手法をとったのではないだろうか。
旧街道にはもう茶店などないし、小学生が釣りの穴場へ
連れていってくれることもないから、リアルな手法でそれらを蘇らせたかったのだろう。
しかしこの作品のなかで、まったくリアリズム手法で描かなかったものがある。
釣り客を含めた人物と紅い花である。
ここでの人物はただの人物ではなく「面影」である。
つげはもしかしたら、自身の旅の途中に街道の茶店をみかけたかもしれない。
イワナのいる清流をみたのかもしれない。
そしてその風景から掻き立てられた人物像があったのだろう。
つげは漫画家だったのでその少女を描き留めることができたが、
景色にいつかの面影をちらと見かけても通り過ぎるのが旅人の宿命である。
山の清冽さと、少女の成長の痛みの結晶のような花は、
いやしいイワナに食べつくされる。少年も少女も下山していなくなったので、
もう人々は紅い花のあったイワナの淵に辿り着くことはできない。
花畑のなか、軍隊帽を被った少年に負われて眠る少女に
幸福な夢を託すことしか旅人はできないのである。
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