『バナナブレッドのプディング』の少女たち
はじめまして、羽純と申します。
このブログでは、漫画や音楽、旅行記録などを載せてゆくつもりです。
まず一回目の投稿では、わたしのアイデンティティを形成した漫画について書きたいと思います!
その前に、わたしの漫画体験についてひとこと。わたしは中学生の頃、友達と少年ジャンプをまわし読みして、好きなキャラクターについてあれこれ言い合って、夜はネットで鋼の錬金術師の二次創作を物色するという典型的な腐女子生活を送っていました。
そんなわたしも「どうしてわたしはBLを好きになってしまうんだろう…いつまでもオタクじゃだめなのに…」と思い直すきっかけがいくつかありました。
物語の主人公・三浦衣良(みうら いら)は、とても変わった女の子。もう高校生なのに、お姉さんがいないと夜中にひとりでトイレにも行けないし、子供のころに遊んだ「石けり」や「草編み遊び」に執着してやめることができない。衣良の両親はそんな娘の姿をみて「精神鑑定をしてもらったほうがいいかもしれない…」と心配します。そんな衣良に友人さえ子は「恋人ができればなにもかも良くなるわよ!」と、衣良に理想の男性像をたずねると、「世間に後ろめたさを感じている男色家の男性」と答えるのだった…。

「世間に後ろめたさを感じている男色家の男性」……。
このしちめんどくさい理想像はどこからくるのでしょうか。
衣良の頭のなかはこうです。
「世間に後ろめたさを感じている男色家の男性」は、たとえ好きな男性があらわれても、そしてどんなに両想いであっても、自分が男色家であるというコンプレックスがあるかぎり堂々と日の下で愛し合うことはできないだろう。それならば、"彼が男色家であることを世間から隠すために、カモフラージュ結婚してあげたい"と言うのだ。
そんな衣良の望みをきき、友人さえ子はなんと自分の兄に「男色家のふりをしてほしい」とお願いして、衣良と偽装結婚させてしまう。(偽装結婚は上手くゆくのか、そのへんはぜひ作品にあたってください!)
奇妙な人間関係がはじまりましたが、『バナナブレッドのプディング』のテーマは、"「世間に後ろめたさを感じている男色家の男性」を嗜好する少女"…つまり一言でいえば「腐女子」なのです。
作品が連載されていた70年代は、ちょうどBLの元祖・少年愛ものの少女漫画が爆発的に流行しはじめたこともあったので、大島弓子なりに「少年愛を嗜好する少女」を分析して今までの漫画史上類例のないキャラクターとストーリーが成立したのではないかと思います。
当時腐女子だったわたしは衣良の欲求が本当によくわかりました。だって、「世間に後ろめたさを感じている男色家の男性」が恋人ですよ。
読んだ当時、衣良と同じように内気な少女だった私は、「肉体や性格を問わず、その人の隣にいて、カモフラージュ結婚してるだけでじぶんの存在理由が確立する」というストーリー展開に、うっとりしました。
さて物語の第二の主人公、おせっかいのさえ子もお年頃、好きな人ができます。
その恋のお相手は奥上君というのですが、なんとこの奥上君が"自分の兄に恋している"ということが発覚してしまう。他の女の子に片思いならまだしも、ゲイで、衣良と偽装結婚した兄に好意を寄せているだなんて…。
そこでさえ子は、兄そっくりに男装し、兄になりきって奥上君に接触します。彼はさえ子が変装しているとも知らず嬉しそうに慕ってくるため、さえ子は次第に変装がやめられなくなってしまうのです。しかし、いつまでも騙し続けることはできません。どうしたら良いか悩んださえ子は、ひょんなことで知り合った大学生に悩みを打ち明けると、次のように尋ねられます。
「その男色家が兄さんを愛しはじめていると知ったとき きみは失意の最たる絶望を味わったか それとも得恋のような甘さを味わったか」。
さえ子は後者、「得恋のような甘さを味わった」と答えます。
それを聞いた大学生は、"君の恋は、奥上への恋ではなく、実は兄と一心同体になりたいという無意識の欲求から生れたんだよ"と諭します。さえ子は「そりゃあなんとなくウキウキした失恋だったけど…」と答えますが、ちょっとまってください。好きな男の人がゲイで振り向く余地がなかったら、ふつうは悲しみのどん底にいるものじゃないでしょうか。
大学生とさえ子は議論を続けます。
この3つの思考は、衣良とさえ子ふたりに当てはまることです。
姉に執着する衣良と、兄に執着するさえ子。「姉の赤ちゃんに生まれ変わりたい」と願う衣良と「お兄ちゃんになりたい」と願うさえ子。男色家のカーテンになりたい衣良と男色家を愛してしまうさえ子………。
"兄と一心同体になりたい"ということについて、話をもう一度、70年代以降の少年愛漫画に戻し、そもそもどうして少年愛漫画が生まれたのか考えてみます。
まだジェンダー的問題を意識したばかりの日本社会のなか、当時の少女漫画家たちは、従来の少女漫画像をどうにかくつがえすために意識的に「少年愛」をとりいれました。少女的な内面を持ちつつも、少年という外見と境遇を得ることで、お決まりの少女像を逸脱しようとした試みは『風と木の唄』『ポーの一族』などの傑作を世に出します。
「少女像の逸脱」を目的とした少年愛の精神は現代まで引き継がれます。女性がBLを読む理由は、今でも「自分の存在を抜きにして恋愛物語が楽しめるから」という意見が大半を占めているのです。
この「自分の存在を抜きにした恋愛」を楽しむ様子は、さえ子の境遇と重なるような気がするのですが、どうでしょうか。さきほどの大学生の質問をちょっと変えて世の腐女子に問うてみたいです。
「その男色家(筆者注:攻め)が兄さん(筆者注:受け)を愛しはじめていると知ったとき きみは失意の最たる絶望を味わったか それとも得恋のような甘さを味わったか」。
きっと後者だと思います。
わたしが『バナナブレッドのプディング』に出会った頃もまた毎日BL漫画を読むために生きていた、「自分の存在のいかん」に悩む子どもでした。読みはじめた頃はなぜ読後あんなに涙が出たのかわからなかったけれど、それは大島弓子が真摯な目で遠くから幼い心を見抜き、寄り添う手だけをラストに添えてくれたからだと思うのです。
…なので職場等でBLが好きな子に出会っても「変態」と一括りにしないで、「この子は衣良ちゃんなんだ…自分の存在のいかんに悩む、バナナブレッドのプディングの少女なんだ…」とあたたかく見守ってあげてください。
おまけ1
ひとむかし前の少年愛漫画といえば「思春期のいっときだけの同性愛」と「実らない恋」がお約束でした。
それはおそらく「男女の恋愛ができる(実る実らないではなく)」ことが「一人前の女」の象徴であり、その通過点を、結ばれない、実らない、「同性愛」で象徴したからだと思います。少年愛漫画は、読者側の少女の成長物語(少年愛から卒業するための物語)でもあったのです。『バナナブレッドのプディング』もまた、その一例といえるでしょう。
でも昨今は性のあり方も多様になってきたので、BL漫画をみても「同性愛を擁護する」か、「居心地の良い関係を維持する同性愛」か、もしくはほんとに変態的になってるものというような気がします。(あまり読み漁ってないので断言はできないですが)
多様な価値観が認めらる時代に、同性愛ものを描くというのはどういった価値があるのか、今後の良い課題になりそうです。
おまけ2
大島弓子のよさは上記にあげたような精神分析的なところ…
じゃなくて!!!
とびちる花とふわふわな絵と珍妙で魅力的な台詞とモノローグですので、そのへんの良さも今後書いてゆけたらと思います。
END
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