巨人伝説にともなう古代人の儀礼
巨人伝説にともなう古代人の儀礼
<前置き>
日本各地の巨人伝説には、本来儀礼が伴っていたのではないだろうか。
それを考えるために、まずは巨人伝説の舞台のひとつである湿原の神聖性を、そして日本を含めた環太平洋地域にある蹲踞姿勢像との連想、未開民族の神話と儀礼の在り方から、巨人伝説が本来持ち合わせているはずの原初的世界観と失われた儀礼を若干無理やり感があるが結びあわせてみたい。
<古代の人々の描いた原初の日本の姿>
古代、日本は「大八洲国」とか「葦原の中国」と自ら呼んでいた。大八洲国の由来は『古事記』の国生みの章でイザナギ・イザナミが生んだ島々のことを指すのだろう。また『魏志倭人伝』には「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す」とあるように、はたから見ると日本は山地の占める割合が多い国なのに、記紀神話では日本国土を「葦原」と表現している。世界地図もない時代に日本で暮らす人々は本州が「葦原」の「島」であると考えていたのだろうか。日本書紀冒頭は、この古代人の世界観をそのまま表現しているように思える。
「開闢くる初に、洲壌の浮かれ漂へること、譬へば遊魚の水上に浮けるが如し、時に、天地の中に一物生れり。状葦牙の如し。」
この宇宙にはじめて生まれ出たものは魚のように浮かぶ土であり、そしてそこから葦の若芽のようなものが兆した・・・。
浮かれ漂う土、葦の芽・・・。このモチーフが想起させる情景は「湿地」である。湿地は、干潟、沼、水田など、淡水や海水によって冠水する、あるいは定期的に覆われる低地のことをいう。湿原は鳥や獣のあつまる狩猟場であり、そこに生える葦や菅は食用にも、衣服や家を葺く材料にもなったというが、湿原など言ってしまえばただのぬかるみである。畑にすることも家を建てることもできないため、現に関東平野は家康の開墾指令が出る以前はまったくの無用・無価値の湿地であった。さらに時は流れ、近代以降じめじめした湿地はどんどん埋め立てられ、陸は陸、水は水とコンクリートで隔てられてゆき、終には安心して人間の住める土地に変わった。私たち近代人は湿地のことを何も知らないし、そこから神話の面影をイメージするのは難しい。しかし、いくつかの伝説から、湿地とともにあった日本の光景のほんの一部でも思い描くことができるはずだ。
<湿地の光景>
「学生の時分に身とから常陸の太田へ歩いた途中、親切な土地の商人に教えてもらったのは、かの近辺の泉木の森というのは、『百人一首』に「みかの原わきて流るる」とある歌の故跡だそうであった。森の中にしみずの湧く池があって、その岸を人が踏めばきっと美しい泡が立つのを、不思議とせられているということであった。」(「念仏水由来」柳田國男)
関東には「ヤチ」「フケ」などと名付けられた湿地がいくつもあり、そこは水生植物が枯れ朽ちて堆積してできた土壌で、とても軟らかく、辺りを人が踏むなどすると水の中に空気の泡が立ち上がる。そういった土地にいつの頃からか、やれ武将の誰それの乳母がここで入水したとかもったいをつけ「念仏池」だ「姥ヶ池」だと名付けた。そして、この池に向って念仏を唱えれば霊験あらたかな泡がぶくぶくと立つぞと解かれた場所が、京都、豊後、美濃、上総・・・と日本中にあったらしい。念仏池と同様に、湿地の特性をいかしたのが「大太良坊」伝説である。
①「南多摩郡由比村字小比企から南、同村宇津貫へ越える所に、俗に池の窪と称する凹地がある。東西に長くて(長さ十五六間くらい)、ちょっと足跡といえばそうも見られる形をしている。昔デエラボッチが富士の山を背負おうとして一跨ぎ踏ん張った。一足が駿河の国に、他の一足がここに印せられたのだと言い伝えている。」(「じんだら沼記事」柳田國男」)
伝説の舞台となった「池の窪」と呼ばれる地は、ふだんは乾いているが、梅雨時には水を湛えて湖水のようになるという。遠州には「(遠州見附の磐田原に)雨が降れば水の溜まる凹地があって、それは大ダラ法師の小便壺といっていた」という記録もあるので、ある一定の期間だけ水を湛える土地があるというのは、めずらしいことではないらしい。長い梅雨が明けた快晴の空の下、景色がぱっとそれまでと違うものになっていることに深秘を感じ、「ああこれは、昨晩大太良坊が歩いたからだ」と言い合う昔人を想像する。小便壺なるものも、神秘的な自然の景観の変化をのちの人がユーモアをまじえて語り継いだ小さな証なのだろう。
<国土創生の大太良坊>
上にあげたような伝説は、景観からくる素朴な発想だけで生まれたのだろうか。大太良坊伝説は、歩き回って足跡を残すだけでなく、山を作ったり田をつくったり、人間の暮らす土地をつくりあげた創生神でもあった。
②「昔デエラボッチという非常に大きな人がいた。ある時富士山を背負おうとして、相模原の原中をふじ蔓を見つけて歩いたが、どうしても山を背負うだけのふじ蔓が見つからない。それを残念がってジンダラ踏んだその跡が、今原の中ほどにある鹿沼と菖蒲沼である。」(同)
「ジンダラを踏む」という見慣れない言葉はあとにして、柳田は巨人が山をつくり土地を開いた説話は本来とても古いものであると、『播磨国風土記』と琉球の昔話をひいて説いている。
③「昔大人ありて常に勾まりて行きたりき。南の海より北の海に至り、東より(西に)巡り行きし時にこの土に来到りていえらく、他の土は卑しくて常に勾り伏して行きたれども、この土は高くあれば伸びて行く。高きかもといえり。かれ託賀の郡とは曰うなり、その踏みし迹処、数多、沼となれり。」『播磨国風土記』
④「大昔、天地が近く接していた時代に、ヒトはことごとく蛙のごとく這って歩いた。アマンチュウはこれを不便と考えて、ある日堅い岩の上に踏張り、両手をもって天を高々と押し上げた。それから空は遠くヒトは立って歩み、その岩の上には大なる足跡を留めることになった」(沖縄県)
『播磨国風土記』は奈良時代初期に編纂された書物で、「大人」と呼ばれる巨人が「この土は高くあれば伸びてゆく。高くかも。」と言ったことが土地の由来になっている。アマンチュウは琉球の始祖神で、ここも播磨国同様天を押し上げたことになっているが、この説話は以下ポリネシアのランギとパパの神話と同タイプである。
混沌と無の世界で、暗闇のなかでポーといううめき声がきこえた。その声にあわせて世界の動きが起こり、そこから光・熱・湿気が生み出され、世界最初の二神・天空神ランギと大地母神パパが出現した。二神は神々や天地の間にある万物を創造したが、二人があまりに親密でしっかりと固く抱き合っていたため、天と地が近付きすぎて光が届かずずっと暗闇に覆われたままであった。二神の子供森の神タネは、ランギとパパを引き離そうと頭を母の大地に押し付けて、足で父の天空を激しく蹴り上げた。こうして二神は引き離され、暗闇の世界に光がさした。
一見素朴な大太良坊の説話も、遡ればポリネシアのランギ・パパ同様の創世神話と重なる。ちなみに中国の神話に登場する盤古大王も、創生神話の巨人である。以下に引用しておく。
⑤「天ははじめにはその形が無く、地もまたその姿かたちを持ってはいなかった。その様子は鶏卵のように丸くひとかたまりであった。この天地の様態のことを『最初の伽羅卵』という。この時、計り知れない大きさの蒼蒼たる天が開き、広々とした地が闢た。そして、これら天地に生まれた万物を博戴することの限りなさは創造すらできない。盤古王はその世界の原初の人であった。その身の丈は十六万八千由旬であり、その円い顔を天となし、方形の足を地となした。そりたつ胸を猛火とし、蕩蕩たる腹を四海となした・・・この世の万物で盤古王から生じなかったものは一切無い。彼の左目は太陽となり、右目は月となった。そのまぶたを開けると世界は染明け、閉じると黄昏となった。彼が息を吐くと世界は暑くなり、吸うと寒くなった・・・」(Wikipedia 盤古大王説話:現代語訳)
記紀は奈良時代に記されたものだが、当時の編纂者には神々を巨人に見立てようとした意図はみられない。しかし日本各地の巨人伝説が、ポリネシアや中国の創世神話の系譜を引くものだとしたら、記紀神話とはまた別の創世神話が「大太良坊譚」に隠されているかもしれない。
<蛙のようにかがむ姿と屈折像土偶>
②の大太良坊伝説に、「ジンダラ」という見慣れない言葉があった。ジンダラとは関東地方の方言で、「地団駄」というのと同じだ。柳田は「尻を地に下し手足を振り動かし、体を揺りつつ口惜しき表情ををなすこと」と解説しており、「口惜しくてたまらぬがどうすることもできぬという場合に、昔はあぐらでいたからこれをよくしたのだが今日はもう幼な児にもこんな挙動は見られなくな」ったという。これは、例えば爪弾きとか、後ろ指をさすとか、今では一種の修辞で、いっそ漫画のなかぐらいでしかそういった挙動を現実にする者もいないのではないだろうか。巨人伝説の伴う湖沼には、「じんだら沼」と名が付いているところや、巨人が尻餅をついてできた窪地や池が多数ある。巨人伝説についてまわるこの「口惜しがる所作」を、柳田は「第二次的にこの国土を支配した神々の、さらに立ち優れて有力であったことを説くため」といい、巨人伝説のあとに記紀神話が覆いかぶさっていった可能性を述べている。また、これは私の思いつきだが、「じんだら」の動きはまだ這うこともできない赤子の動きに似ていないだろうか。思うようにいかないとき、赤ん坊は手足をばたつかせ泣き喚く。そう考えると、思うように山が運べずじんだらの跡を残したのは、湿原から誕生した大きな赤ん坊なのではないだろうか。
ところで、③④の傍線部は巨人が天地を分かち、それまで屈んでいた人間が立ち上がる場面だが、このシーンから連想されるのが東北地方にみられる屈折像土偶である。
縄文時代中期以降になると、子どもを抱いて母乳を与えている母の像や、壺を抱く姿など、あたかも当時の縄文人たちの動きを写したかのような、ポーズをとった土偶が多く出土される。その中には、両膝をたてて座って合唱をした土偶や、同じように座って片手をあげているものが東北地方を中心に登場し、これを屈折像土偶と呼んでいる。足をまげ蹲踞の姿勢をとっている理由として、当時の人々の集団祭祀の様子を形にしたのではないか、と推測されているらしい。もしかして、巨人が天と地を分かつ神話と、蹲踞姿勢は何か関係があるのではないか?巨人神話を語るシャーマンと、蛙のように屈み儀礼に参加する古人たちの光景があったのではないか。
「たかが屈むぐらいなんだ」と思うかもしれない。しかし、欧米・アフリカの人間は我々アジア人と骨格が違うためしゃがむことができない。さらに日本を含む環太平洋地域には、この蹲踞姿勢の姿を描いた古代の絵・像・彫刻が実にたくさん出てきているのである。そしてもうひとつ、蹲踞姿勢の特異さを裏付ける事例に、「蛙」があげられるのではないかと考えている。
<蛙と甦り>
蛙は神聖な動物である。ことに時代を遡るほどその聖性は浮き彫りになってくる。古代エジプトの水の神ヘケトは多産と復活を象徴する、蛙面の女神である。古代エジプトにおいて、蛙はその姿から胎児の象徴であり、また多くの卵を産むことから多産の象徴であった。エジプトではお産婆さんのことを「ヘケトの召使い」と呼ぶのもこの神格から来ている。
日本の文献上確認できる蛙神は、『古事記』の少彦名命の章に登場する「タニグク」である。
大国主命が出雲の美保の御崎においでになった時、波の上を天のかがみの舟にのって寄り来る神がある。その名を問うても答えないので、従者たちにきいてみたがやはり答えない。しかしタニグク(蟾蜍)は「クエビコなら知っているよ」といい、果たしてそのとおりだったー・・・
タニグクの語源について本居宣長は「グクは鳴く声によれる名、谷といふは、物のはざまに居る物なる故なり」という。蛙のことを方言でタンギャク(九州)、タンガク(沖縄)、タンゴク・ダンゴク(熊野)と呼び習わす地方もあり、古語の名残と考えられる。
さて「グク」が鳴き声であることは頷けるが、「物のはざまに居る物」を表す「タニ」を蟾蜍に当てはめたのはなぜだろうか。一つは、蛙が両生類で、水陸両方を棲家としていることからきているかもしれない。陸を跳ね回っているかと思えば水中に飛び込み、長いこと息つぎもせず泳ぐ。人間には真似できない蛙の生態に、昔の人は注目していたのかもしれない。そしてもう一つが、蛙が死んでもまた甦ると観念されていたことにあるのかもしれない。
古代、汎世界的に不死の象徴として信仰されたのが永遠と満ち欠け繰り返す月である。とりわけ中国では、月に蟾蜍が住むと考えられており、月中に蟾蜍を描いた絵画がいくつもみつかっていて、そこには胎児、または蛙とも解せる蹲踞像が一緒に描かれている。
日本にも「月読の持ちてる変若水」という古歌があるように、月の神が人間を若返らせる変若水を持っていると観念されていた。タニグクは万葉集の二つの長歌にも登場している。一つは山上憶良「天雲の向伏極みタニグクのさ渡る極み・・・」、もう一つは高橋虫麻呂の「山彦の応へむ極みタニグクのさ渡る極み・・・」である。前者は天上の雲が地平線のかなたにたれこめる果てであり、後者は、こちらから発せられた声が彼方に達し、そのこだまが返ってくるだろうはるか遠いところということで、どちらも地の果てを指している。「タニグクのさ渡る極み」は、「月が東から西まで渡るその両方の極限」と解するべきだという考えも在る。また最近では、「月」「蛙」「胎児」のモチーフを描いた縄文土器(半人半蛙紋土器)が諏訪を中心に作られていたという研究が出ており、古代をさらに遡って、縄文の日本にも蛙を神聖視していた時代があったと思われるのである。
<縄文の胎生学>
古代人が蛙を神聖視していた理由に、最近胎生学的な研究視点が向けられている。チベットの『四部医典』には人間の受胎から出産までを表した図があるが、人間になるまでの過程に魚の時期、亀の時期、イノシシの時期を経ることになっている。胎児の発生の過程を視覚的に似ている動物とあてはめているが、この順番は生命誕生からヒトが進化するまでの道のり(魚類、両生類、爬虫類、哺乳類)を追っているようにも見える。縄文の人々も、オタマジャクシが変態し蛙になること、おなかのなかの胎児が形を変えることを生命への探究心と畏怖の眼差しで見ていたことだろう。(縄文人がどうやっておなかのなかの胎児をみていたのか、という疑問があるが、人間を含め様々な動物たちの出産と流産、あるいは堕胎の様子は現代人以上に直に見てきたと思われるので、胎生学は縄文時代からあったと私は思う。)
<神話と儀礼>
吉田敦彦は『昔話の考古学』で未開民族たちの儀礼を紹介している。彼らは一族が伝えて来た神話を、イニシエーション儀礼のなかで再現するのだ。
「マヨの祭りにはじめて参加する若者たちは、五か月のあいだ続くこの祭りのはじめに、それまで身に着けていた衣服や飾りを、すべて剥ぎ取られ、結髪も解かれた。そしてこの時点では彼らは生まれたばかりで、あらゆる食物をはじめ、衣服、飾り、結髪、漁、狩り、性行為などについても、まったく何も知らぬと見なされた。その彼らに、祭りの二日目から大人たちが、神話に出てくるデマと呼ばれる祖先たちに扮装して、神話の中の事件を次々に演じて見せた。そしてそれによって彼らは、太古にさまざまなものがどのようにして発生したかを順々に教えられ、それらを食べたり使用したりすることをだんだんに許されて行った。二日目に彼らがこのようにして教えられたのは、バナナの起源神話で、そのあとで彼らは、バナナを食べることを許された。三日目には彼らは、ココ椰子の起源神話を教えられ、そのあとでココ椰子の実を食べることが出来たと報告されている。・・・祭りのはじめに若者たちは、前述したようにまっ裸にされたあとで、ココ椰子の葉を与えられ、それで頭と足以外の全身を覆い隠す衣装を作って、身につけた。その姿はまさに椰子とも人間ともつかぬもので、イエンゼンも指摘したように、原古にまだ植物ともはっきり区別されていなかった状態を表したものと思える。・・・まだ人間として未完成で、従ってなお他のものとの区別も曖昧な子供たちを、人間としてはっきり完成し大人にするためには、原古にそれを体験して祖先たちが人間になったその事件を、そのつど彼らにその通りに体験させねばならぬことになる。」
未開民族の社会をみると、神話と儀礼は不可分に存在するということを感ずる。これらの事例を合わせて、巨人伝説にみる「這いつくばう」とか「屈む」姿勢が象徴するものは何か考えてみたい。琉球と播磨の説話では、大人またはアマンチュウが現れるまで、人は「蛙のようにはいつくばっていた」「屈んだ」姿の「人間未満」の存在だった。「這いつくばう」「屈む」人というキーワードから、「胎児」の姿が連想され、さらにはエジプトで胎児を象徴していた「蛙」が合わせて想起される。縄文人は、人間未満の存在として「蛙と胎児」をあげ、そこから二足歩行に立ち上がることを「完全な人間」の象徴と考えたのではないだろうか。もしかしたら、天を持ち上げるシャーマンと蹲踞して人間未満の存在に身をやつし、そこから立ち上がって成人になる若者たちの儀礼が、湿原を舞台にして行われていたのではないだろうか・・・。国土創生の大いなる人を呼び起こし、半人半蛙のヒトビトを立ち上がらせ、完全な人間へと変態させる営みが、古代にあったかもしれない。
*オマケ*
<八十島祭>
湿原を舞台にした古代に儀礼に、「八十島祭」がある。平安期まで天皇の即位儀礼大嘗祭の一環として、大阪淀川の河口付近で行われていた謎多き幻の儀礼である。河口付近は、海岸から沖合いにかけて、潮が満ちると多くの洲や島ができる。それを大八洲にみたて、住吉神と生島・足島という神を祀る。天皇の乳母が、天皇の御衣を納めた筥のふたをあけて潮風にあてて、生島の巫が祝詞を唱えた。天皇に日本の国魂の正規を付着させ国土の生成を祈るる儀式であったという。
生島・足島はおそらく八十島、つまり日本国土を象徴した神だと思われる。この神は、延喜式六月の月次祝詞にも登場する。(月次祝詞は古来から伊勢神宮で六月と十二月の月次祭に詠まれた祝詞である。)
皇神が支配する島々の極限を、海上では潮の泡がとどまる果て、地上ではたにぐくが渡ってゆく地の果てと言っている。どちらも潮泡もタニグクも修辞に過ぎないが、イザナギ・イザナミが描き探った矛から滴り落ちる潮、そしてタニグクを意図してモチーフにしたのではないか、と想像する。
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